昭和42年08月03日 夜の御理解
昨日福岡の徳久さん達親子四人で、子供さんが三人あります。お母さんと三人で今日は、丁度亡き父親の立ち日に当たります。それで皆んながあのこうして椛目にお参りさせて頂こうということになりましたら、あの子が果物この子がお菓子という風に、それぞれお供え物を包みましてからお参りをして参りました。それで私まあ正式なお祭りでございませんから、このまま奉仕着ではございましたけれども。
玉串だけ準備させて貰いましてから、それからお礼を申させて貰い、神様にお礼申させてもらい、御霊様へとお届けをさせて貰いました。そしてあちらでまあお下がりでも頂いて、お茶でも一服させておる時に、子供たちが次々に言うんですね。今日はあのお母さんが、あのお参りさせてもらうというのに、何かかんかこういつも抵抗を感じていたけれども、今日という今日はもう本当にあの言われんでも進んで。
こちらからお参りしたいと、いう気持ちであったということ。一番姉さんが大体あまり、信心がございませんけれども、それでも年の内五、六回ぐらい参ってきますでしょうか。そういう程度の信心ですけど、ご承知のように、徳久さんがああした行き届いた信心をされます。息子達は熱心でございますね。高橋さんところの職人でいっております。マサハルさんと言いますが、何か特に熱心でございますか。
昨日あちらでお茶を頂きながらです、色々とお話をしておる中に、僕、親先生、こういうような考え方は間違っているでしょうかと、言うてその話すんです。私は本当に感心しました。あの蚊に刺されますとですね、蚊に刺される時に、痒いからパットこう叩こうとこう思うね。その時にあの、ひょっとしてあの父がこの蚊に、いや生まれ変わって来とってなかじゃろうかと言った様な事を思うと。
やっぱりハァちゅうてから、その叩かないとこう言うわけなんですね。これはあの仏教から来た考え方なんですね。生まれ変わりとあれは何とかという法師が、「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父とぞ母とぞと思う」言った様な有名な歌がございます。仏教から考えますと仏教的な考え方から考えますとね。例えばそこにその鳥が鳴いておる山道を歩いておる時に、山鳥が鳴いておるホロホロと山鳥が鳴いておる。
ひょっとしてあれは、父の生まれ代わりかも知れん。母の生まれ代わりかも知れん。自分がその道を通っておるのに、何か呼び掛けておるのかも知れないと言う様な情感がその歌の中にございますね。私はこの信心をさせて頂くならですねこの情感が大事だと思います。最近は宗教的情操という言葉が使われます。それは私はその色々にそれは、円満穏やかなと言った様な
ことでなくて。そう言う様なものの感じ方、そういうものの感じ方。私の修行中の時分には、あの例えば畦道をこう歩いておりますとね。下駄やら靴やら履いてはもう通りませんでした。実感として何か草が痛いて言いよるような感じがする。裸足で通る誰か気違いの様に見えたでしょうね。もうあの当時私がもう色々神様からお知らせ、もう頂き続けに頂きます。こういう畳を歩いておってもですね。
畳の上一つ一つがハァお装束を着られた、その方達が、神様では、なかろうかと、思われる様な、見えるんですよ。ハァこういう実感です。教祖の神様が畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通るようなものじゃと、そういう一つの情感というものが、教祖の心の中にゃいつも豊かでおありに、なってあろうと思います。それは丁度、朝露に濡れた薮の中を押し分け、押し分け。
ざわざわざわざわとこう朝露が落ちていく。朝露のをこう身体が濡れるように、またこう分けて行けば音がするようにです、私は神の中を分けて通りおるような実感というものがです、教祖の神様の心の中にはおありになったんであろうと。だからこそそうした御教えがあるのであろうとこう思うのでございます。その情感何とも言えません。本当にそのそう言うならば、馬鹿のような考え方ですね。
蚊がとまっておってパチッとたたこうと思ったけれど、ひょっとするとこれがするとこれが、父親の生まれ変わりとかもしれないと思うたらふっとしていうて叩かないとこう言うんです。信心には、そう言う私は豊かなじょうそうがですね。育っていかなければならない。特に天才的な大宗教家といった人達は、そう言う情感が非常に濃いようですね。ところがですその情感だけではいかんのです。
今日、こっからたくさん善導寺の夏の祈願祭にご参拝のおかげを頂きました。相変わらず福岡の薬院のフジオ先生のお話を頂きました。もういつ頂いてもそれは見事のお話でございますね。約一時間余りをもうそれこそ、眠気どんたつだんじゃない。面白可笑しゅうしかも大変難しいことを、まあ分かりやすくお説きになったんですけども、やっぱり難しかったんですね。
それは只今私が申します様に義・情・智意とこの三つの事をです、是はあらゆる宗教にあるんだということを説かれました。これは金光教だけじゃない。そして金光教の独壇場というところをです説かれました。まあ私が頂いたところを聞いて貰うならばですね。例えば松の木が幸い願いの祭りだと、小倉の初代があのように、ご本部の御造営のご用材の献木を九州からおかげを頂きたいという、その発願されましてね、
その事を神様にお願いになりました。そしてそれを大祈願祭を小倉のお広前で開かれそれが次々と、小倉の桂先生のお手続きにある教会の上に、その祈願祭が行なわれた。九州中の産業、商業、農作物、諸事、諸事万端の上に、大繁盛のおおみかげを蒙る事を願われて、見事にその御用材が献納が、お出来になられたわけでございますが、そう言うこの祈願の祭りいかにもこれは。
この欲の皮のツッパッタ様な願いの様に見えるけども、そうじゃないのだ。ここのところに金光様のご信心の独壇場があるのだと、私どもが願うと言う事はです、そのまま天地の親神様の願いなのだと。私どもが健康になりたい私どもが言わば、お金を沢山財の上にもおかげを頂きたい。様々な難儀苦しみの中から助けて頂きたいという、この私どもの願いを、そのまま天地の親神様の願いなのだと。
だから神の願いを願いとしてのこれは祈願祭だからです。ただ我情につぱった、我欲につっぱった所のものではなくて、そう言う願いを立ててそう言う願いをおかげを蒙らせて頂くということが、そのまま神様のお喜びであり、所謂「あいよかけよの道」というのは、そこんところからが、他の宗教とは違うのだと言う事を説かれました。確かにそうでございます。私どもの願いが。
私どもが幸せになるということは、そのまま親神様の願いなのだ。だから願っても一つも可笑しいことはない。それがただ問題はですよね。自分が安気安穏のために、自分がただ栄躍栄華のためにお金を下さい。自分が遊んでまわりたいために健康を下さい。これではいけませんけれども、そこに筋道を立ててからの願いであれば、それがそのまま天地の親神様の願いなのだ。そう言う願いの中にです。
いわゆる智、情、意これはあらゆる宗教宗派でも同じこと。様な事の所の是が信心にどうでも必要なのだと言う事を説かれました。情というのは只今徳久さんが感じた。私が感じた。教祖の神様が感じられたであろうという例をもって、お話を致しましたね。何とも言えんその情感というものがですね、もう草木の上にでもかけられる。道を歩きよっても、神の中を分けて通りおるような実感。そういう情感。
そこに一切のものに感謝を捧げなければ、おられないという心が生まれてくるんですけれども。これは夏目漱石でしたかね。情に竿させば流される。智に走れば頑なるですか。何かそういうような名文句がございますようにですね。情だけではやはりいかんのです。それには一つ、やはり智というものが必要なのだ。お互いがそれぞれのまあ私どもでも、小学校程度の教養を身に付けておるわけ。
全然無学全然いろはの「い」を書ききらんというとは違う。小学校的言わば教養を身に付けて、おるのでございますから、その程度でありますけども金光教をそういう程度でございますけども、教学することがでける。道理の上においても、だから迷信的なことを教祖の神様は全然仰っていない。もう実に素晴らしいことだと思いますね。それは智をもっておられたからなんです。信心をただ迷も迷信的なね。
ただ拝むだけの信心にされなかった。自分の頭で言わば判断して成程、天地の道理に叶うたあり方だなぁと言うことをです。いつも確かめ確かめ信心をお進みになられた、どうも可笑しいと言う所が金光教にないと、言われておるのはそのことなんです。ですからやはり特に若い人達は、勉強をしなければいけません。金光教のとは何か有難いということの本質は何かおかげとは何ぞや、というようにです。
私はそれを本当に、教学的にもつまびらかにしてゆく。そしてそれが誰も説明を求められても、それがお話出来るくらいなです。教学は身につけたいと思いますね。それでいて只今申しますような情感が溢れたものでなければいけない。それにいります情、智、意なの。意というのは意志の意なの心ね。例えば三代金光様が十四のお年から七十四才におなりになる、八十四才におなりになりなるまで。
丸七十年間それこそ始めの間は、泣く泣く辛抱したとおっしゃる。辛抱辛抱するその意というものが、強うなからなければいけません。ハァ言うてばっかその風呂に入ってバッテンもう私達にはでけん。これは意に欠けておるわけです信心辛抱ね。神信心には辛抱することが一番大切でございますと言ったような、いわゆる御教えがあるのもそこから生まれておるのでございます。
辛抱しぬかなければ向こうにある有難いものに、触れることが出来んのですね。だから自分でも、自分では辛抱出来ないところでも、神様にお縋りをして生神金光大神さま、天地金乃神さま親先生とこう、お縋りしていくところにですね。本当にようもようもああいう辛抱がでけたもんだと言う、辛抱もでけるんです。そう言う三つが渾然として私どもの心の中に、信心の心の中に養われていく智、情、意なのです。
しかも今日、薬院の先生が説かれたところの。私共が助かると言うだけではなくて、私どもが助かるそのものが、親神様の助かりになられるというような、助かりに繋がっていくところの、おかげを頂かなければならない。皆さん情の点でどうでしょうか。智の点でどうでしょうか。意の点でお互いの、一つ信心辛抱の内容を検討してみなければいけないと思いますね。
どうぞ。